01. 百合

 わたしの百合の原点は、『星の花が降るころに』であった。
 作・安東みきえ。絵・スカイエマ。書き下ろし作品。
 ──中1国語・光村図書のための。



 国語の授業がまったく人を狂わせてしまう、というのは本当にあるもので、わたしが明確にいわゆる創作畑の人間になったのは、どう考えてみても光村図書のその作品のせいだった。
 もちろん、あらゆる人生の分岐点というのがそうであるように、その当時は自分の人生がそれまでとは異なる道を歩みはじめたことに気付くことはなかった。


 さて、本題に移ろう。
 わたしが百合ジャンルに属するものを読んだり書いたりするときに大事にしているのは、ふたりの間でのあらゆる価値観の相対化だ。
 これは男女の恋愛を扱う作品ではなかなか難しいもので、そういった作品が価値観を相対化しようとするとき、たいてい性的衝動の相対化に必要以上に手こずる。丁寧な描写と言えば聞こえはいいが、わたしの好みには合わないものが多い。だからわたしは、自分の好きなものが描かれやすい百合というジャンルが好きだ。そういう打算的な心持ちがわたしの中にはある。
 
 わたしは人間の心どうしが繊細な接近を遂げたとき、どういう振る舞いを取るかを見たい。わたしの好みというのは、まさにこれだ。人間どうしの物語を主軸にしているというのなら、人間の高度な精神的活動に依存しないで実現される状況には興味がない、と言ってもいい。
 そういう場合、当然、「恋愛」という言葉を好きなようにこねくり回しているようでは話にならない。単に「好きだ」という激情に囚われているようでは悲劇的な結末を招く。1
 まずは固定観念を排し、自分と相手との関係をお互いが持つ因子で割り続ける。そうしてその関係の核、心の水底2が現れたとき、ふたりが同時に立つ地面がはじめて構築され、そこからふたりは百合色の塔を立てる準備に進むことができる。
 誤解しないでほしいことを強調すると、決して彼女らの性的衝動だとか肢体だとかを無視せよというわけではない。むしろわたしは逆を主張していて、もしそういったものが彼女らが解体すべき因子にわずかでも含まれているなら、彼女らはそれに向き合うことから逃げられない。3
 男女間を扱う作品の多くでは性的衝動の相対化に「必要以上に」手こずると言ったのは、異性では当たり前のものとされすぎている観念を解体するのに多数の紙面を割かなければならないからだ。性別に関係なく、すべての関係をその核心が現れるまで等しく解体してほしいと考えているわたしには、そういった状況は嬉しくない。もしかすると人間はついぞ性別から逃れられることはないのかもしれないが、しかし、ふたり以外が世界にいないとしたとき、そのような分類がどれほどの意味を持つだろうか。身体がこの世にふたつしかなければ、可能な分類は「あなた」か「わたし」か、それだけだ。

 話を戻そう。
 そういうわけで、わたしは百合ジャンルに含まれる作品が好きだ。だが、それはあくまで打算的なものでしかなく、究極的には人間と人間の繊細なたましいの動きを見られれば、それでよい。百合ジャンルの作品には、わたしが知っている限りそういうものが多い。だから百合が好きだ。「恋愛が排された男女バディ」や「ブロマンス」を望む心と大差はない。
 きっと20年もすればこの考えは古くなるに違いない。しかしわたしは、現在の、そしてそれ以前の作品内で、心を気の遠くなるほど丁寧に通わした彼女らに敬意を払うのを止めることはないだろう。
 

Footnotes

  1. わたしの読んだ中では、『安達としまむら』は特にそういう側面が強いように思う。

  2. 『蛍はいなかった』/はるまきごはんより。

  3. エヴァンゲリオンもそうだし、シメジシミュレーションだってそうだった。愛を解体しようとするとそういう問題に衝突しがちで、それは自我の境界が融解して《一つになる》状態が生命を損なわないままに実現されてしまうからだろうと思う。もちろん、そのままでは健全な関係は構築されない。「ひとつ」のままでは「ふたり」になることはできない。